NO,303  田んぼ通信 令和1・12・15

 今年も師走となりました。12月に入ったと思ったらあっと言う間に半月が過ぎます。昨晩、床屋さんの帰り際に「良いお年をお迎えくださいね」と言われ一瞬もうそんな時期なの・・・。それにしても、年々、時の過ぎるのが早く感じますが今年は特に感じます。  今年は公私ともにいろんなことがありすぎました。
時代も平成から令和へ。東日本大震災からまだ10年も経たないというのに10月の台風19号による記録的大雨による水害など大災害を二度も目の当たりにしました。  角田市は、8年前の東日本大震災の被害を受けたものの沿岸部の津波による壊滅的被害から比べれば少なかったといえます。またここ10年間は、各地で相次ぐ異常気象による大型台風の上陸や自然災害も受けず、心のどこかで全てよそ事であり「ここ角田は住みよい所だ」という雰囲気がありました。 それが、10月の超大型台風19号の直撃を受け地球的規模の異常気象が身近なものに感じるようになりました。また 「いつ何処でも大災害がやってきてもおかしくない」という会話を耳にすることが多くなりました。 お天気様と共に生きている関係で、この10年あまり間違いなく気候がおかしくなってきていると感じ、自分なりに多少ないとも対応してきたつもりです。営農においては、より良い作物を育てそれをもって収入を得るということが経営の最重要課題であり柱に据えることにしました。「やるべきことは、いい作物を安定的に育てる事。それが、我が家のやるべき事業」 そこで、先ずは土台である「土づくり」の見直しから始めました。 一口に土づくりと言っても近代農学でいう土づくりは基礎知識であり無視はしませんが、経験に基づいた土づくりを実践している農家の先輩方の話を聞き、実践することを心がけています。我が家の圃場にあった土づくりの答えは、作物自身が答えを出してくれます。作物自身がまともに育たないのであれば、「土づくり」の答えには程遠い、という信念のもとにこの10年来取り組んできました。ここ数年、自分なりに多少は作物の出来が良くなるようになりました。60歳を超えて、私の農業の先生は、「自ら育てる農作物であり教室は田んぼ」だということを心がけています。 「米作りは、毎年一年生」という言葉があります。 たぶん凡人の私には、一生答えはだせませんが、春になれば種を蒔き田植えをすることは止めることはありません。  さて、農業という職業柄、お天気様の動きが日々きになります。 天気予報も良くなったもののあてになるのは明日の天気ぐらいのものです。所詮あてにならないものを気にしながらの仕事を続けてきて40年も経ちました。自然と身についたのが、常にお天道様に手を合わすことです。最悪の事態に備えやるべき優先課題を考え行動する。いかなることも他人のせいにしない。現実を素直に受け入れ常に先を見据え行動する。言葉にすれば立派なことですが、まだまだ身につきません。 66歳にして、ようやく目標が見えたというのが正直なところです。  ところで、お天気さまも、おかしくなってきましたが、政治経済も誠におかしくなってきました。 いままで全ての面で先送りしてきた諸問題が一気に表に出てきた感じです。難しい理屈は 分かりませんが、どうみてもお札の印刷しすぎです。 私のところにはご縁がありませんが 巷にはお札が溢れているようです。 先日 親戚の葬儀で東京に行く機会がありましたが、改めて東京は札束の勢いでやりたい放題のことをやっていると実感してきました。超近代的なビル群の乱立。最新の交通網の整備。 巨額の投資でやりたい放題。田舎で生活していると少しは田舎に投資してもらってもいいのではと感じます。 まあ、それも時間の問題で大変革が起きるでしょう。どう考えても、帳尻があいません。紙ペラにお金を印刷しすぎです。 これも、自然の摂理で紙のお金は、元の紙クズに戻るしかないでしょう。 これから勉強することが山ほどあります。  これからが、すべての面において実践を通しての本当の勉強の始まりです。 それを、改めて自覚した一年でした。 先ずは、明日を信じ日々の暮らしをしっかり生き抜くと。やるべきことは、田んぼに通いこと。 今年もお世話になりました。良いお年をお迎えください。


NO,302  田んぼ通信 令和1・11・16

 気がつけば暦は11月半ば。 先月12日から13日にかけて上陸した台風19号。その後の台風21号の影響による再び大雨の被害から一カ月が過ぎました。あっと言う間の一カ月です。 今年は、稲の収穫も順調に進み、作柄もまあまあの出来栄え。6月の大麦の出来もまずます。残すは大豆の収穫のみ。今年の大豆の種まき作業は苦労しました。久しぶりの本格的な梅雨空、それに伴う長雨で少しの晴れ間を見ての必死の作業でした。 その分だけ、大豆への思いは強く、その後の手入れのも例年になく気合を入れての作業の連続でした。幸い梅雨明け後は、猛暑の到来で大豆の生育は一気に回復。莢付きも良く、例年以上の収穫を期待していました。そろそろ、収穫をはじめようと大豆コンバインの整備などを始めた矢先の台風19号の直撃。これまでにない想定を超える大雨。隣町の丸森町の山間部では、一日の雨量が600ミリに迫る大雨。私の住んでいる角田市も400ミリを超える雨量を記録。市内のほぼ中央を流れる阿武隈川本堤の決壊はなかったものの、阿武隈川支流の二つの河川が決壊。角田の市街地も濁流が流れ、これまでにない多くの家屋が床上、床下浸水の被害がでました。 テレビや新聞では、隣町の丸森町の被害状況が連日報道されていますが、ここ角田市は四方を山で囲まれ、隣の丸森町と共に伊具盆地の中にあります。盆地のほぼ中央を阿武隈川が流れ地形的にはほぼ同じです。丸森町の多くは山間部を占めていますが角田市は、阿武隈川の下流域にあたり広い田んぼが広がっています。そのなかでも、私の住んでいる角田市北郷は、阿武隈川西岸の低地に広がる県南部を代表する水田地帯です。伊具盆地は、海抜が低く昔から阿武隈川が氾濫すると度重なる水害に悩まされてきました。藩政時代より、角田市の地域づくりの歴史は阿武隈川との闘いだったといえます。今日のような、立派な水田地帯になったのは90年まえの昭和の初めに当時としては、東洋一といわれた私の村にある国営江尻排水機場が出来てからです。現在は、排水機場も新しくなり国内でも有数の排水機場として活躍しています。その機場の日常の管理運転を担っているのが土地改良区という農業団体です。その役員をしている関係もあり排水機場への思いは人一倍あります。 今回の大雨は、その機場の排水能力をはるかに超える大雨です。伊具盆地の地形的宿命、中央を流れる阿武隈川西岸に降った雨は、丸森町に降った今回の大雨も、最終的には私の地域に集まって阿武隈川に排水されるというシステムになっています。 今回の大雨は、連日丸森町の被害が全国ニュースになっています。被害の程度は 人的被害も含めて丸森町は確かに惨憺たるものがあります。その被害をもたらした大雨は、最終的に我が角田市北郷地区の田んぼに流れ込み、一週間以上も滞留し収穫目前とした大豆や多くの農作物に甚大なる被害をもたらしもたらしたと思うとやるせない思いがあります。しかも、その現実が殆んど報道されないことに対し、角田市民の多くが丸森町の惨状を見るにつけ、まだ角田はましだという何とも慎ましい思いを抱いているのも事実です。  ということで、大水が引いた後の田んぼは、大量の稲わらが多くの田んぼの隅々に堆積しています。これから冬を迎え、雪の降る前に処理しないと来春の田んぼの耕作に支障が出るのはあきらかです。また、大豆は、結局全滅でした。せっかく手入れをしたので少しでも収穫しなければと、良さそうなところを選んでコンバインで収穫を始めたものの収穫した大豆は、品質が大幅に低下。売り物になりませんでした。二毛作の大麦の種まき作業も控えていましたので、今月5日に圃場が乾いたのを確認し、収穫を諦めトラクターでそのまま鋤き込み大麦の種まき作業をはじめました。大麦の播種適期はもう過ぎています。少しでも早く播種作業をしなければとの思いで11日に作業を完了しました。 トラクターで大豆をそのまま潰して鋤き込みましたが、今年の大豆は、努力した甲斐があって、大豊作。収穫目前で水没、皆無。悔しい思いで大麦の種まき作業進めました。 今朝 大麦畑で確認したところ、新しい芽が力強く動き、もうすぐ地上に出るまでに育っていました。 来年に向けて新しい命は芽生えています。今年の悔しさを糧に、「百姓の来年」気力を振り絞り田んぼに通います。


NO,301  田んぼ通信 令和1・10・16

 12日に上陸した台風19号は、私の地域にもこれまでに経験したことのない暴風雨をもたらしました。 テレビ等では、隣町の丸森町の被害状況が盛んに報道されていますが、角田市も阿武隈川が氾濫危険水位をはるかに超える決壊寸前まで水位が上昇。幸い決壊しなかったものの、阿武隈川支流の小田川と高倉川ふたつの河川の堤防決壊。これまでに経験したことのない大きな水害となりました。我が家は、高台にあるため住宅への浸水はまぬがれました。しかし、集落内の低地にある住宅等は床下、床上浸水するという大きな災害となりました。  特に私の住んでいる北郷地区は、角田市内でも低地に広がる県南有数の穀倉地帯です。阿武隈川の下流域に位置し、藩政時代から水害に苦しんできた地域でもあります。 その水害を克服するため昭和の初めに、当時としては東洋一の排水機場といわれた江尻排水機場がつくられ、新田開発が進み現在の見事な水田地帯になったところです。その江尻排水機場も30年前にあらたに造られ全国有数、東北では一番の国営江尻排水機場として角田の市街地を守る要として現在に至っています。 今回の通信は、台風襲来からの状況報告とさせていただきます。

12日午後から 次第に風雨強まる。午後3時、土地改良区職員より国営江尻排水機場の運転開始の連絡を受ける。排水機場に出向き長期戦になるので頑張るように指示する。  午後8時30分 市役所から行政区長に緊急連絡用ファックスが届く。 内容は 令和元年台風第19号 大雨特別警報発令による避難所開設について  大雨特別警報発令されましたことにより市内全地域に 警戒レベル4 避難指示(緊急)を発令しましたので、避難をお願いします。 命を守る最善の行動をとってください。  対象地区 市内全地区 指定避難場所は、北郷小学校。 とありました。 テレビでも命を守る行動をとってください。と盛んに報道を続けている。 このファックスやテレビ報道を見て、正直なかなか実感として伝わってこない。どれほどの行政区長が動いたか疑問があるが、最大級の台風直撃というので万が一のことを考え備えだけはしなければという思いで行動をとる。 先ずは、市の指定避難所の小学校に行くよりも、高台にある部落の公民館がはるかに安全で快適な避難生活ができるので 公民館のカギを開け、夜は電気をつけておくように早めに指示する。 また、稲刈りが終わったものの、収穫したコメが大量に作業場にある。 最後の最後に雨にあてたのでは、一年の苦労が一晩で無駄になる。最悪の事態を想定しコメを守るため格納場所の変更とブルーシートをかける等、万全の備えをする。 12日夕方から13日未明にかけこれまでにないような暴風雨となる。

13日朝 午前3時過ぎに風雨が弱くなってきたので、先ずは、作業場のコメの様子を確認し、公民館の避難状況が気になり公民館へ行く。2家族 7人が避難。 次に 辺りはまだ暗かったが幹線排水路の様子を見に行く。車のヘッドライトで確認するともの凄い勢いで水が逆流している。これはまずい。直ぐに低地にある部落の半数の家に公民館に避難するように声をかける。辺りは真っ暗、殆んどの家は眠りの中。今のうちに高台の公民館へ避難を呼びかける。公民館は、区の役員に任せて、江尻排水機場の様子が気になったので機場へ向かう。 途中で唖然とする。すでに道路が水没。車が行けない。別のルートへ。回ってもいたる所で道路が水没。孤立状態。どこへも行けなくなる。すでに田んぼは水没集落全体が大きな湖の中にある状態となる。 公民館に戻り避難状況を確認。すでに59人ほどが避難している。 避難している人に、これからの状況を説明する。いまは、まだ集落内の道路は車が通れるところがあるが、ここは角田市内でも一番低いところにある。これから水かさが増し、少なくとも一メートルほど水かさが増えると考えられる。今のうちに出来るだけ車などは公民館などの高台に移動するように、また 水没して困るものは少しでも高いところに移動ように話をする。40台を超す車が公民館周辺に集まる。5年前に完成した公民館。水害の時に備え公民館を建てようと呼びかけ建設した公民館。まさか自分が生きている時に避難生活の場所となるとは。 昼にかけ徐々に水かさが増し、辺りはまさしく大きな湖。集落内も車での移動が出来なくなる。 夕方には、 高台にある家を除く半数の家族が高齢者を中心に59人ほどが公民館に泊まることになる。我が家は、幸い高台にあるので家で過ごすことができたが、行政区長として一緒に泊まる。我が家から公民館までは200メートルほどだが、車での移動ができない。 膝上までつかり歩いて公民館まで行くありさま。一晩 みんなと泊まったが 今回は電気、水道などのライフラインが確保でき公民館の設備もエアコン、水洗トイレなど充実していたとはいえ避難所生活は大変。市役所に、南岡公民館で避難生活が始まったので 毛布や食糧の提供を要請するが準備が間に合わないので対応できないという。 14日朝 水かさが益々上昇。避難していた人も不安が増す。 水の動きが想定していたとは違うと感じる、明らかにおかしい。江尻排水機場に行って情報収集をしたいがまだいけない。夕方になり なんとかルートを確保できたので排水機場に行く。そこで初めて、阿武隈川の水位が機場で15メートルを超え決壊寸前だったことを知る。また、阿武隈川支流の小田川と高倉川の二つの河川が決壊したことを知る。水の動きがおかしいと思っていたが、市内の大きな二つの河川が決壊したのではただ事ではない。角田に降った大量の雨は、最終的には我が北郷地域にすべて集まり江尻排水機場からしか抜けない。これが角田の宿命。それだからこそ全国でも有数の排水機場がある。公民館に30人ほどが泊まる。市役所からバナナ30本とヨーグルト30個ほど届く。夕方 自衛隊が毛布とおにぎりを届けてくれる。  15日朝 まだ水は引くどころか、水は引かない。水かさが増えているとの話もでている。江尻機場では、昼夜休まず土地改良の職員が排水運転を続けている。今回の量は、排水機場の観測で400ミリを超えたという。角田市街地や他の地区でも大きな被害がでているようだ。午後から 少しずつ水が引き始める。まだ田んぼ一面 水浸し。道路は、いたる所で水没、通行止めが続く。角田市街地や他の地域では、水が引きはじめ道路が乾いているという。それでも我が北郷は、大きな湖の中。収穫目前の大豆は、まだ水没状態。 今年は播種時期に雨多く 苦労して種まき作業をし、これまで以上に手入れをし、まずまずの出来栄えまでこぎつける。収穫目前にして収穫皆無。百姓の来年という言葉があるが、何とも悔しい。それも現実。下を向く暇はない。 岩手医大の災害派遣支援チームの皆さんが、避難生活者の健康診断に来てくれた。ありがたいことだ。  16日朝、 まだ水が引かない。それでも道路の水没箇所が少なくなり車の通行量が増えてくる。 早朝たんぼを見に行くと大量の稲わらが排水路に吹き寄せられている。これでは、排水路がふさがり排水に支障が出る。また、この稲わらのこれからの処理を考えると頭が痛くなる。部落に通じる道路が一部だけ車が通れるようになる。それでも、道路が水没し車で移動できない家が7軒ほどある。幹線排水路に稲わらが大量に集まり排水を妨げている。 このような状態では生活道路の確保さえ見通しがつかない。重機を持っている地元の業者にお願いしたが手が付けられない。市に連絡して市長より自衛隊の派遣を要請してもらう。午後から自衛隊員30名ほど来ていただく。正に、人海戦術。夕方暗くなってからも作業が続き無事終わる。 ただただ感謝するだけだ。 17日朝。ようやく部落に通じる幹線道路が通れるようになる。それでも4軒は、まだ車が通れる状態ではない。台風が過ぎ5日が経つというのに、田んぼは、水没状態が続き大きな湖が広がっている。お米は、なんとか守ったが、大豆は売り物にならないだろう。これから、大量の稲わらの処分など考えると頭が痛い。大変だがやるしなかない。 公民館の避難所を閉鎖する。 今回の水害で、あわただしい日々を過ごしています。 お米の発送が遅れています。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。宜しくお願いします。


NO,300  田んぼ通信 令和1・9・15

 田んぼ通信 300号をお届けします。 埼玉県内の福祉グループの皆さんのお声掛けをいただき書き始めた田んぼ通信。 毎月お米の発送と共に書き続けて25年が経ちました。  25年間、毎月欠かさず書き続けて300号。 40歳にはじめて65歳になりました。 振り返れば忙しい日々の農作業等の中で、毎月一回の田んぼ通信を欠かさず書き続けるだけで精いっぱいでした。 これまでの通信を読み返す時間的余裕がありませんでしたので、何を書いてきたかと思うと恥ずかしくなります。たぶん毎年 同じようなことを書いてきたのではないかと思います。 3月に種まきの準備が始まり、4月に育苗、5月に田植え。6月に麦刈り、9月に稲刈り、10月に大豆の収穫、麦の播種。 この25年間、 暦と共に毎年おなじ作業の繰り返し。 毎年一年生で、農作業への想いは毎年おなじ。 おなじ作業の報告に25年間もお付き合いをいただいた、お米を購入いただいている皆様に頭が下がります。東北の片田舎で、田んぼに寄り添い家族と共に百姓一筋に必死に暮らし続けてきた一途な生き様を伝えたい。 それだけです。 これからも気力が続く限り、米作りへの情熱と百姓としての熱い思いを発信つづけます。よろしくお願いします。 令和元年 初めての新米のご報告です。 異常気象が続く中、今年も無事に稲刈りが始まりました。 9月8日 台風15号がやって来るということで急遽 稲刈りをはじめました。今年は、収穫作業機コンバインを一台新しくしました。作業場の乾燥調製作業のラインも新しくしましたのでその試運転を兼ね早めにはじめました。 7月の天候不順で稲の生育が心配されましたが、8月に入ってからの猛暑続きで生育が回復し例年並みの収穫が期待されています。農水省の作況も宮城はやや良と発表されました。稲刈り作業は始まったばかりですが 今のところ見かけよりも収穫量は少ないようです。稲の姿は、豊作を期待できる姿でしたが実際は、平年作を確保できれば良いというところです。 稲作りは本当に難しいものです。 それでも、6月から7月にかけての異常気象を乗り越え、無事に収穫できたことに素直に感謝するだけです。稲刈り作業は、最初に ひとめぼれ の刈り取りからはじめて 次に だて正夢 の収穫、 今月末から来月初めにかけ つや姫 の収穫が始まります。 来月10日頃までには、収穫作業が終わる計画です。 今はただ無事に収穫作業が終わることを祈るだけです。 田んぼに稲があるうちは、安心できません。 先日 関東地方を直撃した台風15号。千葉県内の農業関係に甚大な被害をもたらしたようです。 千葉県には、農業関係の研修所で学んだ関係で、多くの友人がいます。 台風の次の日に千葉市の友人に連絡したところ、今までに経験したことのないとんでもない暴風が吹き荒れたというのです。 どこから手を付けたらいいか茫然としているということでした。 テレビ等では、農業関係の被害の報道は少なく被害の全容は分かりません。しかし、今なお停電の地域が多くあると聞きます。 台風から4日以上すぎています。猛暑の最中 電気がこないということは、主要な動力を電気に頼る近代農業です。農業関係にとんでもない被害が起きていることは想像できます。 たとえば、台風襲来を予想して 刈り取り作業を急いだはずです収穫した籾は、直ちに乾燥機にかけ乾燥させます。停電で乾燥機が動かないとなれば大変なことになります。収穫した生籾は、高水分で直ちに乾燥しないと変質します。しかも 夏場で気温も高め。せっかくのお米が、一晩でダメになります。 報道されていませんが、多くの農家が とんでもない被害を被ったのではないかと想像しています。心が痛みます。  田んぼに稲があるうちは、安心できないと昔からいわれてきましたが、今の世の中、すっかりお米になるまでは安心できません。 なにが起きるかわからない世の中になりました。  これまでになく、たくさんの思いがこもった今年の新米です。 先ずは、新米を神棚にお供えし無事に収穫できましたことに感謝しました。  時代と共に、米作りも大きくかわります。米作りは、続けることが一番。時代が変わろうとも 止めることはできません。


NO,299  田んぼ通信 令和1・8・15

 天気が、変です。ここ数年のことですが、極端な天気が続いています。6月初めに梅雨入り早々、本格的な梅雨空の毎日。気温は、毎日が20度前後。一時は、平成5年以来の凶作が心配されるほどの梅雨空が続きました。それが先月末に梅雨明けと同時に気温は一気に上昇。今度は、毎日が35度前後の猛暑日の連続。冷夏の心配は、すっ飛んでしまいました。田んぼの稲は、穂ができる大切な時期を無事に過ごし、例年とほとんど変わらず出穂期を迎えました。連日の猛暑を喜ぶかのようにたくましく咲き誇る白い花。花の香りも昨年より強く感じます。独特な稲の花の香り。豊作を予感できる香りです。 しかし、油断は禁物、まだまだ安心できません。すべては、お天道様次第。つい半月前までは、不作を心配するほどの天気ですから豊作までは期待できないものの、なんとか平年作を期待できるまでに回復してきました。あとは台風がやってこない事をいのるだけです。ここ数年、特に感じることですが、お天道様の下での生業が百姓仕事。特に我が家で作っているコメ・大豆・大麦は、土地利用型の作物、広い農地が必要です。 お天道様のご機嫌を窺い、先の天気を予測しその対策を自分なりに対策を練ることができるか。 たとえ、その予測が外れても、自分の頭で考え行動したものは必ず次の年に活かされる。この繰り返しが百姓仕事です。それが、なかなか凡人にはできません。言葉でいうのは簡単、学問の世界ではそれなりの言葉を並べれば満点が取れます。満点を取れば、人としての評価が上がります。それで、飯も食えます。 百姓仕事は、理屈をいくら並べても飯が食えません。作物の出来栄えそのものが、全て。最終的に米や野菜など収穫物が答えを出してくれます。他人事ではありませんが、人は能書きを並べると気分が良くなりますが、それを実践し成果をだす。これは、並大抵のことではできません。 先日、近隣の行政区長等の集まりがありその席上、定年退職後、村での生活に戻り畑仕事に興味を持った一人の先輩の言葉です。 先日、JAのカレンダーにとても良い言葉があった。ということでスマホに写真を撮っていたので見せてくれました。 「稲は、地力でとれ。麦は、肥料でとれ。豆は、培土でとれ。」なるほど、昔から言われてきた百姓仕事の基本の言葉。その言葉に関心を示すとはさすがに大企業の中堅幹部まで務めた人。目の付け所が違うと改めて感心しました。その場では、それ以上の話をしませんでしたが、「稲は地力でとれ」それでは、 如何に地力を高めるか。一口に地力といっても、 それを実践し成果を上げるにはこれまた大変な時間と労力が必要です。頭で分かっても、それを自ら実践し創り出し、成果を上げることは並大抵ではできません。すぐには結論がでませんし、自分なりに納得した実践プランをみつけ、確固たる信念に基づく最終的な目標をもつことが必要です。それを言葉ではなく体で本当に理解するには、私のような凡人にはあまりにも多くの時間が必要でした。40年以上もかかってしましました。正直、まだ解りません。ただ、ここ十年来続けてきた、新たな土改剤の投入と民間の農事気象予測を参考に米作りをするようになってから自分なりの物差しができ、稲を見る目が明らかに変わってきました。 それよりも先ず、作物の姿が変わってきたことを実感できるようになりました。 出来栄えも 安定してよくなりました。 人間ができることは、作物が元気に育つことができる土台を作ること。それは正しく土づくり。 いかなる天気になろうとも、健全に育つ体を作ること。 それでも打ちのめされたなら、「百姓の来年」。またまた再挑戦です。その繰り返しで、先輩百姓は、営々と米作りに励んできました。 さて 「新元号元年」の農事気象予測によれば、8月の気象 8月8日 立秋(これより秋)月の前半は晴天続きで猛暑となる(異常高温に注意)降水量やや少ないが、局地的に大雨・落雷・雹あり。9月の気象 上旬は真夏日多く、台風の発生あり不安定な気象。月の後半より気温も下がり天候不順。東日本は低温の日が続き冷害型・西日本は干ばつ型なり。とあります。さてどうなることか。ここまでくれば、心配なのは台風だけ。無事に収穫できますように・・・お天道様。


NO,298  田んぼ通信 令和1・7・15

 先月8日に梅雨入りして以来、天気が続きません。これが、梅雨本来の天気といってしまえばそれまでですが。特に、先月末から今日までの20日間程は、毎日が曇りや雨の日の連続。しかも、お日様が顔を出さない分、気温も低く平成5年以来の冷害が心配される状況です。この梅雨空の毎日で、畑に入れず農作物の生育にも大きな被害が出てきました。 無事に大麦の収穫作業は終わったものの、小麦を栽培した人は、この天気で収穫作業が遅れ収穫したものの検査に合格できなかったものや、収穫そのものを諦めた人もいます。我が家では、毎年、大麦のあとに二毛作として大豆を作付けするのですが、その播種作業が大幅に遅れました。今年は、作業の関係で普通大豆の作付けを止め、納豆専用の小粒大豆に切り替えました。小粒大豆は、播種時期が普通大豆より遅く6月下旬から7月中旬までと比較的長いからです。それでも、今年の梅雨は異常です。毎日が梅雨空の連続。お日様が全くといっていいほど顔を出してくれません。畑に入れないのです。 種を蒔かなければ何も始まりません。いくら遅くとも7月中旬までが、播種時期の限界です。このままでは、今年は作付けができないのではと心配しました。なんとしても種まき作業だけはすると決心し、播種作業を工夫し、束の間の梅雨空の合間を見計らって先日の13日に計画していた7ヘクタールの種まき作業を終えることができました。 小粒大豆の作付けを予定していた人で、まだ播種作業が終わっていない人が多くいます。これほどまでに、畑に入れない状態が続いたことは経験したことがありません。天気予報によれば、これから一週間先も、お日様マークはありません。心配になりますが、お天気様のことは、どうにもなりません。 一日も早く梅雨が明けることを祈るだけです。 小粒大豆の種まき作業に、これまでになくエネルギーをとられているうちに肝心の田んぼの稲も最も大切な時期を迎えています。 稲の一生の中で最も低温に弱い時期を迎えています。減数分裂といって花粉ができる時期をむかえます。生育の早い稲は、減数分裂期を迎えています。この時期に最高気温が20度以下に数日間、17度以下の低温に一日さらされると花粉ができずお米になりません。温度だけではなくお日様の熱エネルギーも関係しているという話もあります。お天道様の光エネルギーは、偉大なもので農作物の生長に欠かせません。しかし、お天気様のことはどうにもなりません。どうにもならないことは、考えないようにしています。人の力でやれることを毎日精一杯やるだけです。田んぼの稲を低温から守るための唯一の手段は、用水です。水の保温力を利用して幼穂を守ることです。これは、人がやれることです。やれること、やるべきことをしっかりやる。それを毎日どれだけ真面目にやったかは作物が答えを出してくれます。この地道な日々の積み重ねが農作業であり、農業で生き残れるうえで最も大切なことです。 幸いこれまでのところ梅雨空が続くものの最高気温が20度を超え21度前後で推移しています。予報では、気温そのものは回復する見込みもあります。それでも、どのように変わるかわかりません。田んぼの見回りを真面目にやります。一か月以上続く梅雨空。早く梅雨が明けることを祈ります。 ところで、5月25日に中国からお客さんがやってきました。中国上海、同済大学教授の程国強先生です。我が家に来るのは、今回で3回目です。先生は、2013年2月、横浜国立大学に2年間留学していた時に、農林中金研究所で働いている友人の紹介で初めてきました。日本の農家調査が目的でした。それが縁で、2016年4月に日本政府外務省の招へいで来日した際にわざわざ我が家まで来ていただいたのが2回目でした。その時の肩書は、国務院の幹部職員でした。その際、次男が家で働くようになったので法人化を検討しているということが話題になり、必ずまた来るという話をして帰りました。まさか三度来ていただくとは思っていませんでした。今回は、中国国務院と日本の外務省が窓口となり毎年1年ごとに互いの地方都市で行われている経済人の国際会議で仙台に来きました。今回は、程先生の奥さんと通訳として新華社通信の記者と同社傘下の全国誌「環球」のベテラン記者の4人で来ていただきました。午前10時から午後4時までたっぷり角田の話や農政の話で意見交換することができました。その様子は、中国の雑誌「環球」7月号に掲載されこれまたビックです。


NO,297 

田んぼ通信 令和1・6・16

 朝から雨です。 みやぎ角田は、8日に梅雨に入りました。 近年は、梅雨入り宣言がでても前半は晴れ間が続くのですが、今年は梅雨入り早々本格的な梅雨空が続きます。  お天気様は、今年も変です。 本来であれば、西日本から梅雨入り宣言が出るものです。今年は違います。早々と東北地方が梅雨入りしたものの西日本ではまだ梅雨入り宣言が出ていない地域もあります。 水不足が心配だという新聞記事もあります。 田んぼの稲は、極めて順 調です。 5月の連休以来 晴天の日が続き、しかも5月後半は30度を超す真夏日が数日間続くという異常ともいえる天気に恵まれ稲の生育は良すぎます。 これまでの経験から、生育前半が良すぎる年は、作柄はあまり良くないと言われています。苗づくりや田植え作業などに苦労した年ほど 最後の作柄が良かったということが度々あります。「青田褒めの下作」とも云われてきました。 稲作りは、本当に難しいもので最終的な収穫物である お米を如何に多く獲るか。 お米は、お天道様の贈り物。お天道様の光のエネルギーによる光合成作用を如何に効率よく良いお米に仕上げるか。これが本当に難しいのです。 正直、理論的には理解できてもなかなかうまく出来ません。何十年も稲作りをやっても凡人の私にはまだ解りません。 稲作り45年にして分かったことは、どんな天気になっても対応できる稲の体に仕上げる事。そのためには、稲の体を丈夫に育てる事。魔法の薬や肥料などに頼るのではなく、基本技術である土づくりに力を入れる事。そのための資材と労力は惜しまないこと。すぐに結果は出ません。時間と労力そしてお金もかかります。これらを根気よく長い時間をかけて田んぼに通うことができるかが問題です。これがまた難しい。そのことに自分なりに気づいたのがつい最近です。 40年もかかってしまいました。あらためてやることが沢山みえてきました。65歳にして…。 さて、 ここ数年のことですが田んぼに通う人が本当に少なくなりました。特に今年の春は、極端に田んぼに通う人が少なくなりました。寂しい田植え風景となりました。田植え作業のピーク時でさえ、田んぼに人がまばらです。 これまでの日本の稲作農政は、総兼業農家体制のコメ作りでした。それが、少子高齢化が現実の問題となり、昨今の低米価と相まって稲作りを諦め、委託耕作に出す人が多くなったからです。 このことは、予測されていましたが昨年から今年にかけて一気に表面化してきました。 総兼業農家体制による稲作農政が音を立てて崩れています。 誰がこれからの地域の田んぼを守っていくのか。田んぼを耕す担い手政策が後手に回ってきました。 「今、田んぼを委託耕作に出さないと数年後には 誰も耕してくれない。田んぼを引き受けてくれる人がいなくなる」そんな雰囲気が村にでてきました。これまで考えられなかったことです。  ところで稲は、ご主人様の足音を聞いて育つものだと云われてきました。多くの足音を聞きながら育った数十年まえのお米と今のお米のどこが違うのか。と問われれば一粒々のお米は変わらないでしょう。ただ、人々のお米に対する思いは、確実に変化しています。田んぼを預かる生産現場のお米への想い、都会の消費地でお米を食べていただいている皆さんの想い。それぞれの想いは、時代と共に大きく変わります。生産と消費それぞれの想いが合致してこそ田んぼが存続できます。これは、至極当然のことです。 ムラ社会が激変する今、これからも家族と共に田んぼに立ち続ける為に選択した経営の法人化の道。今年で4年目を迎えます。東京から帰ってきた次男も4年目。本年度から社員から役員の一人として働くことになりました。 これからが我が家の経営にとって勝負の時を迎えます。以前から考えてきたことですが、これまでの百姓人生45年の想いと家族経営から法人化して面川農場株式会社となった今。これからの経営の道標となるものを創りたいと考えこの度、会社のパンフレットとしてまとめました。丁度、宮城県でも新しいブランド米としてデビユーした「だて正夢」(我が社ではこの秋から本格的販売予定)の宣伝も兼ね制作しました。デザインは、20年来のお付き合いがあるグラヒックデザイナーの栃木県足利市の吉田さん、写真は、我が社の社員でもある彫刻家の山中君にお願いしました。梅雨に入り心配した大麦の収穫も無事おわりこれから 納豆専用の小粒大豆の種まきがはじまります。田んぼもこれからが勝負を迎えます。


NO,296  田んぼ通信 令和1・5・16

  元号も平成から令和に変わり初めてのたんぼ通信です。これからも、よろしくお願いします。 今日で田植え作業が終わりました。先ずは、一安心。 先月28日に用水開始。田んぼに水が入り代掻き作業が始まりました。今月3日には、例年通り田植え作業をはじめました。春先以来 雨が少なく阿武隈川の水位もこれまでになく下がり水不足が心配されました。 田植え作業をするには、田んぼに水を入れ代掻きをしなければなりません。代掻き作業をするには大量の水が必要です。 田んぼの用水を維持管理するのは、土地改良区という組織が担っています。 土地改良区の役員をやっている関係で、用排水に関する苦情などが農家組合員からよせられます。 今年は、組合員からの苦情対応などで田植えどころではなくなるのではと心配しながらの用水開始でした。それが幸い4月末に恵みの雨が降り、丁度、用水開始の時期と重なったため水の走りが良く、広い耕土が瞬く間に用水がいきわたりました。用水に関する苦情は、ほとんどありませんでした。こんなことは、米作りをはじめて初めてです。また、田植え期間中冷たい東風が吹くものです。強風や雨で田植え作業を休むことも珍しくありません。今年は、それがありませんでした。 順調な用水とお天気様のお蔭で、田植え作業もこれまでになく早く進みました。 今年の田植えは、36ヘクタール。 20日頃を目標に作業計画を立てましたが、皆さんの協力をいただき早く終わることができました。  ここ数年、自力で一枚の田んぼの広さをできるだけ大きくしてきました。本来であれば、国の事業などで田んぼを大きくしたいのですが難題も多くできません。私の地域の区画整理事業は40年前に実施したものです。 区画整理以前は、一枚10アール。それを40年前に一枚30アールに整備しなおしました。当時としては、大きく感じたものです。現在の区画整理事業では、一枚100アールが標準的な大きさです。来年区画整事業が予定されている隣の集落では、200アールの圃場が誕生する予定です。 一枚の田んぼが大きくなれば全てが良いとは言えませんが、作業効率が格段と違います。我が家では、8条の田植え機械一台で田植えをしますが、今年は、最高で一日4.3ヘクタールの田植えをしました。圃場の集積と拡大による効果が出てきたことは明らかです。経営規模の拡大に伴い、如何に効率的に作業を進めるかも大きな課題となってきました。 それに対応できなければ、規模拡大をすればするほど、減収に繋がります。その見極めが求められる時代になったといえます。 ここ数年、高齢を理由に耕作を諦める農家が多くなりました。農業経営の法人化などと相まって、個別の経営規模も大きくなり100ヘクタールを超す経営も珍しくなくなりました。米作りをはじめた40年前。一農家の平均規模は100アール(1ヘクタール)。それが、今では10ヘクタール規模では中途半端な稲作農家。稲作農業だけで暮らしていくには50ヘクタール規模の農家でないと生き残れないのではと考えるコメ情勢の激変です。 ここ数年、田植え時期になると思うことですが、田んぼに出てくる人が年ごとに減っています。今年は、新元号の始まりと大型連休が重なったこともあり、世の中10連休。それでも、連休中の田んぼは昨年よりも人の姿は、少なく本当にまばらでした。   ところで、5月12日は母の日でしたが、この日をもって、360年の歴史に幕を閉じた老舗の菓子店がありました。角田市で最も古い商店、鎌田家老舗菓子店です。角田市の商店街を代表する老舗です。創業360年と聞いて改めて驚きました。360年の長い歴史の中を 延々と暖簾を受け継できた事実。並大抵のことではできないことです。 それが、何故 今の時代に閉じなければならないのか。私にとって、大きなショックでした。 歴史やモノづくりに汗を流すことに価値を見出せず、情報や時間に多くの価値を求め続ける現代社会。難しいことは分かりません。全てをお金で評価する現代の経済学に大きな疑問と何のための経済学なのかと田んぼで自問自答する日々です。鎌田家の親戚筋の知人から聞いたところ、「店を守るという苦労を これからも子供たちに求めることができない。という答えだった。それを聞いてそれ以上何も言えなかった」といいます。激動が予想されるこれからの時代。自分の答えは、百姓として生き延び続ける事。止めるという選択肢はない。時代なりに柔軟に対応する。


NO,295  田んぼ通信 令和1・4・15

  みやぎ角田は、いま桜が満開です。 今年の桜は、長い期間咲いています。 先月は、例年よりも暖かな日が続き、桜も三月中に開花宣言が出るのではと期待しました。それが、今月に入りお天気様が急変。真冬並みの寒気がやってきて、冬を思わせる雪景色へ。数日前にも、朝起きてビックリ5センチほど雪が積もりました。辺りは銀世界。 これまでも、四月に入ってからの積雪は、経験があるものの、4月に入って雪景色が続くことに驚いています。北向きで雪が多く積もったところは、今日になっても雪が融けずに残っています。 晴れていても、空気がヒンヤリ冷たく感じる今日この頃です。この寒さで3月末にほころび始めた桜も二週間余り経った
今日でも、満開状態のまま散らずにいます。 今朝は、集落の年に三回の共同作業に日でした。朝、5時半集合。昨日ほどではないものの、薄っすらと霜が降りるという寒い中、集落内の 殆んどの人がスコップを片手に集まってくれました。西に連なる蔵王連峰の山々が朝日に映え実にきれいな景色の中での共同作業でした。 春の共同作業は、主に用水路の土砂払いです。行政区長として、朝の挨拶。その中で最近 急激に田んぼを自ら耕作せず、委託耕作に出す農家が多くなったが、少なくとも田んぼの所有者の皆さんは、常に自分の田んぼの存在を忘れずにいてほしい。田んぼを預かった農家も、耕作面積が年々増え田んぼを維持することも大変な時代になった。せめて、用排水路の手入れだけでも手伝って欲しい。そのための、共同作業です。幸い、皆さんの理解と協力をいただき、今年も江払いを実施することができました。田んぼは、部落の財産であり、時代が変わろうとも続けて欲しい。という思いを込めて挨拶をしました。 ところで、先日畑で仕事をしていると、近所のおばあさんと雑談をする機会がありました。 つい最近まで畑仕事で姿をみるものの、常に忙しくしている私です。挨拶程度でゆっくり雑談をする機会はほとんど持てませんでした。  いつまでも元気でいいナイン。畑さでも行くのと声をかけたら、「この頃は、足が痛くなって畑仕事が出来なくなった。動かないと歩けなくなるので、散歩がてらに出てきたんだ。オラいま、自分の人生の中で一番幸せだ。若い時から働き通しだった。いまは、働かなくとも嫁さんに三度のご飯を食べさせてもらい、三時のおやつまで食べさせてもらっている。 今が一番幸せだ」 としみじみと語るその言葉におばあさんの歩んできた人生が蘇ってきました。我が家でも、若い時から家族で手伝ってもらったおばあさんです。年を聞くと92歳で我が家の親父さんと同じ年。子供の頃からお世話になった先輩方もいつしか90歳を超えるようになりました。我が家でも親父さんも92歳。次男でしたが、長男が戦死したため、高校を出てすぐに我が家の稼ぎ頭として 働き尽くめの親父さんです。若い時から、機械が好きで戦後の混乱期の中にあっても、村でも最初に耕運機や新しい農薬を導入するなど常に農業近代化の最先端を歩んできた親父さんです。 昔は、全ての農作業が手作業。人を頼むのが大変で、なんとか人手に頼らないでコメ作りをしたという思いでコメ作りをしてきたというのが口癖でした。農業を始めた18歳から運転免許証を返納した88歳まで毎日欠かさず農作業日誌をつけていた親父さんです。 我が家の親父さんは、戦後の日本農業近代化の生き字引だと思っています。 その親父さんも、昨年ごろから、認知症が進み、昼夜逆転の生活をするようになりました。幸い、おばあさんが元気ですので、老々介護だといいながらもおじいいさんの世話をしています。認知症の介護は、理屈ではなく経験しないと分からないものがありますが、我が家のために一心不乱に働いてきた親父さんです。感謝を込めて、嫁さんともども家族みんなで介護する毎日です。 今になって、親父さんが元気なうちに、昔のことを少しでも多く話を聞いておけばよかったと後悔しています。 この一年で親父さんと共に農業をしてきた先輩方が相次いで亡くなりました。寂しい思いをする機会が多くなりましたが、自分も65歳を迎え集落に対しても責任ある立場になったという自覚を強く持つようになりました。 時代は、平成から令和へ。まさしく大きく変わり、激動の時代を迎えようとしています。 それでも、今年も季節と共に種まきが始まり、ハウスでは稲の苗がスクスク伸び始めました。例年通り、季節と共にコメづくりは始まりました。


NO,294  田んぼ通信 平成31・3・16

  今年も3月11日がやってきました。東日本大震災が発生したのが8年前の3月11日午後2時46分です。8年前の当日、種もみの塩水選の作業の最中でした。今年も種もみの塩水選作業をはじめました。作業の手を休め、ラジオから流れ黙とうの声に合わせ東の空にむかって黙とうを捧げました。  あれから早や8年が経つのかと思うと感慨深いものがあります。 身近なところでは、大震災の直接的な被害は少なかったものの、大きな被害を被った皆さんは、まだまだ復興は道半ばです。特にご遺族の皆様にとっては生涯その悲しみは消えることはないでしょう。  世の中というもの、時として無情なもので特に大きな災害が発生すると、災害復興の名のもとに復興特需なるものがおこります。土木建築関係に携わっている皆さんは、この間とんでもなく忙しかったようです。大震災まえは、倒産を覚悟していたという土建業者も息を吹き返したという話をよく耳にしました。 その復興特需も8年を過ぎ仕事がなくなったという声が聞こえるようになりました。日々の暮らしを生きることで精いっぱいの毎日が続きます。時間だけがあっと言う間過ぎ去り、今年も本格的なコメ作りがはじまりました。塩水選作業、育苗ハウスの準備、種まき作業、水路の点検整備作業等、農作業も一気に忙しくなります。
  ところで、今月5日から9日にかけ 4泊5日の日程で島根県に行ってきました。 三男が4年間お世話になった島根県雲南市の牧場から帰ってくるということになり、そのお礼のご挨拶と荷物の整理のために行ってきました。 荷物があるということで車の旅となりました。 片道1,200キロの車旅。東北自動車道から磐越道・北陸道・舞鶴若狭道・中国道・米子道・山陰自動車道を経て島根県へ。2年前にも行きましたが、さすがに島根県は遠かったです。車の旅は、飛行機や列車とは違って辺りの景色を楽しみながら行けます。新潟県・富山県・石川県・福井県など日本海側の米どころの田んぼの様子を眺めながら息子と二人旅でした。 今回の旅で感じたことは二つです。    ひとつは、まだ3月初めだというのに 雪の少なさに驚きました。 豪雪地帯の会津盆地や北陸の山々を眺めながらの旅です。例年ですと道路の脇に多くの雪が残っている景色の中を走るはずなのが、どこを通っても雪は殆んどありません。 夏の水不足が心配になります。 二つ目は、 北陸の米どころ、さすがに越後平野、砺波平野などは 広々とした田んぼが広がっていました。しかし、西日本各地に入ると海岸部の平野や山あいの少しの平地を利用して田んぼがあります。小さい島国の日本です。しかも、中山間地とよばれる山々が多くを占め日本全体からすれば広々とした平野での稲作は、恵まれた一部の地域だといえます。 日頃、当たり前に感じていた広々とした田んぼの風景。 我がふるさと宮城県角田市北郷は、米を作るうえでたいへん恵まれたと所だとあらためて思い知らされました。  その日本でも恵まれた田んぼを有する我が地域でさえ、昨年から今年にかけて 米作りを断念する動きが急激に広まってきました。 最近のコメをめぐる動きをみると、戦後の混乱期の農地改革に匹敵するような 稲作農家の大構造改革が静かに進行していると感じています。
これまでの兼業稲作農家を基本にしてきたコメ農政の矛盾が一気に表に出てきました。定年退職者を公然と中心担い手農家と位置付けてきたコメ農政。兼業稲作農政の最大の欠陥は、産業としての稲作を担う若い農業者が育つ環境を阻害してきたことです。稲作農業を産業としてとらえる視点があまりにも欠落していました。その結果として、若い20代から30代の稲作の担い手がほとんど育っていないという現実に直面しています。比較的恵まれている平野部の稲作地帯でさえ後継者がいない。これまで、地域の田んぼを支えてきた中規模兼業稲作農家が高齢や後継者がいないということで、田んぼを地主に返すという動きが出てきました。これまで考えられないことです。 中規模兼業担い手稲作農家は、 10ヘクタールから20ヘクタールのコメ農家です。その農家がコメ作りを止めるということは、一気に10ヘクタール・20ヘクタールの田んぼの耕作者がいなくなるということです。その田んぼを 誰が請け負って米作りを続けるか。
 コメ作りの担い手問題が、日常のお茶のみ話に出るような昨今のコメをめぐる状況です。


NO,293  田んぼ通信 平成31・2・15

  2月4日は立春。 宮城県神社祭事歴によれば、「寒さはなお厳しいが、春の気が立ち、昼の時間も幾分長くなる」 とあります。5日は旧暦の元旦。私の住んでいる角田市は、旧暦の正月頃が一番さむく、雪も積もるのですが全くありません。  7日の最高気温が17度。次の日の最高気温が2度という極端な気温変動の激しい冬です。これまで経験したことのない暖かな冬が続いています。 しかも、年末からまとまった雨が降らず、田んぼは乾いています。 あまりにも、天気が続くので春先の天気が心配になります。 天気が続く今のうちに、できるだけ外の仕事を進めたいという思いから、トラクターで田おこし作業をはじめました。 2月3日は節分でした。小さな子供がいなくなった我が家でも、恒例の豆まきをしました。煎った大豆を一升ますに入れ、豆カラの先に煮干しの頭をさし、火であぶって大豆と共に 神棚にお供えしてから豆まきをはじめます。火であぶった豆カラの煮干しは、家の入り口や作業場などの要所に挿します。 今年で92歳になる親父さんがやっていたことを 見よう見まねで覚えていたのを思い出しながら豆まきをしました。  毎年のことですが、ささやかな我が家の昔ながらの儀式。今では正月の行事、農のはじめ、旧暦の5月のよい節句、 12月28日の餅つきなど、だいぶ簡略しましたが、季節ごとの節目の行事、毎年のことですが やらないとなんとなく落ち着きません。     折々に些細なイベントをして自然の神様に無心で手を合わす。 なにも、お金がかかるわけでもありませんし迷惑になる話でもありません。ましてや人様に強要する気などは全くありません。昔に比べれば、今風にだいぶ簡略されたとはいえ、辺りでは、殆んど見かけなくなりました。今の世の中です、科学的根拠に基づかないものを理論武装して続けていくことは、なかなか難しいものがあります。ましてや、理論武装したからといって続けるものでもありませんし、そのほうがむしろ続かないでしょう。止める理由は、即でてきますが、私にとって農業で暮らしていくうえで精神的な支えです。必要だから続けているだけです。 科学的根拠といっても、それが天才といわれる人でもたかだか、その能力は知れたもの。科学的根拠など、ひとが勝手に言い訳を探しているにすぎず、日々コロコロかわります。 そのようなものに自分の未来をゆだねることはできません。百姓人生45年にして、自分が信じることができるのは八百万の神々様・・・。
などと いいはじめると 百姓オモカワ いよいよ宗教家にでもなった気分? 大丈夫です。 65歳になったといえ、私は単なる田舎の百姓の子セガレのままです。 そんなに立派な人間ではありませんし、ひとさまに誇れる生き方など全くしていません。所詮いい加減に生きているだけ。 ただ言えることは、毎年この時期を迎えると、今年こそは去年よりも多くのコメを収穫したいものだという強い願望。 無事に豊穣の秋を迎えることが、すなわち我が家の安泰を意味する事であり、家族の幸せに最も通じることだと信じて生きてきました。そこで、一番気になるのは、お天気様の今年のご機嫌。 これが分かれば、百姓仕事は楽なもの。 これの予測が出来れば、たとえ大きな天候異変になってもある程度は回避できますし、過去の経験もより活かせます。 昨今の農業情勢は、少子高齢化の問題が一気に表面化し、その対応策として やれAI農業だのスマート農業だのと騒ぎだしていますがそれも結構です。近い将来その様な農業が身近になるでしょう。そのような中にあっても命に直結する食べ物を生産する産業が農業です。農作物は、命が宿っている生き物。人様の温もりがあってこそ素直に育つことも、また正解。農業を生業として生きていくうえで必要なことは、農作物から学ぶという謙虚な姿勢と素直な気持ちで接し続ける忍耐力。それを得るための手段としの学歴は否定しませんが、とかく学歴が邪魔をして手足を動かす前に口だけで農業をした気分になって、農業を語る輩を多く見かけるのも現実です。 私には、人に誇れる学歴も ましてや農作物から学ぶという忍耐力もありません。 農業で暮らし続けて45年にして漸くそのことに多少なりとも気付いた自分です。目の前に貼っている隣村の諏訪神社の作占い、平成31年1月15日 筒粥目録。まだ手元には届いていませんが、齋藤式・平成31年農事気象予測をじっくり眺めて今年のコメ作りがはじまります。


NO,292  田んぼ通信 平成31・1・14

寒中お見舞い申し上げます。
1月11日。  恒例の 農のはじめ。
午前6時、あたりは薄暗く朝日が昇るまでまだ時間があります。 今年の稲作に使う種もみに飾っていた 「おがん松」 を下ろし 、藁一束と昔 田おこしに使っていた鍬を蔵から持ち出し、 田んぼへ向かいました。 例年ですと 水路の水は凍り、霜や雪で真っ白になった土を踏みしめながら田んぼに行くのですが、今年は違います。 雪はなく、薄っすらと弱い霜が降っているだけです、土は全く凍みていません。 このような暖かい農のはじめは、経験ありません。  正月早々 今年の天気が心配になります。  我が家では、農のはじめを境に 本格的な農作業が始まります。 法人化して今年は4期目を迎えます。 法人化したとはいえ、家族のほか、従業員一名。他パート一名の小さな会社で。事業内容はこれまでの、家族経営と何ら変わりませんが、法人化して明らかに変わったこと。それは、経営という視点で農業をみるようになったことです。 朝9時、小さなプレハブの事務所に 社員を集めて今年の目標を話しました。 「我が社の使命は、地域の田んぼを守り育むためにある。また、事業に携わるすべての社員の幸せのために今年一年がんばる」という意味の話をしました。 その後、昨年12月28日の餅つきで使った臼に飾っていた お福で餅をストーブで焼き社員一同で食べ、 日本三大稲荷神社のひとつ、竹駒稲荷神社に豊作祈願のご祈祷に行ってきました。 いよいよ今年も 本格的な農作業の始まりです。
ところで、毎年12月28日は正月用の餅を搗く日です。 我が家では、昔から杵と臼で餅を搗きます。 今年は、仙台の知人の分も含め一回2升半ずつ13臼搗きました。今では、村の中でも杵と臼で餅つきをする光景は殆んど見かけなくなりました。農家でも、もち米を作らなくなり正月に食べる餅さえ 買ってきている家庭がほとんどとなりました。 前日の夕方からもち米の準備をはじめ、4から5人で朝から夕方まで餅つきです。準備も含めて大変ですが 会社になった今、これからも稲作農家の証として続けていきます。  今年は 栽培面積が5ヘクタールほど多くなります。 近い将来、50ヘクタール規模の稲作経営になるでしょう。それに伴い、確実な販路の拡大も求められます。また 機械設備の新たな投資が必要になってきます。さらに少子、高齢化が現実の問題となった今、労働力の確保が大きな問題になります。 できるだけ農機具の投資は、控えてきましたが思い切って設備投資をすることにしました。 さて、今月の9日から10日にかけ上京しました。 取引先へ新年のご挨拶を兼ね、これからのコメの販売環境の確認のためです。 もう一つの目的は、昨年秋から東京銀座4丁目の銀座三越の地下3Fの米屋さんに 我が社のお米が販売されていますので、その確認のためです。東京銀座三越には、20年来お付き合いのある米屋さんを通して、念願かなって8年前の秋からお米を販売してもらいました。半年もたたずに東日本大震災が発生。その直後、原発事故の風評害から首都圏の百貨店の棚から一気に下ろされてしまいました。 なんとしても、再び銀座三越の棚に我が社のお米を! もうすぐ8年が経とうとする今。お米屋さんの深いご理解をいただき再び棚に並べていただきました。 店頭の ポッフには、「宮城県角田市 面川さんちの だて正夢。 粘りと もち感が新しいこのお米は、宮城のスーパー農家 面川親子が作りました。息子は、平成生まれ、農家の宝です!」 と書いてありました。
恐縮至極 過分なお言葉をいただき、新年早々 米作りへの誇りと責任を あらたにしました。
今年の年賀状です。

明けましておめでとうございます。

これまで経験したことのない暖かな新年を迎えました。
 時代が大きく揺れ動きだしたことを肌で感じる日々です。先送りしてきた問題が一気に表に吹き出してきました。 国民の命に直結する食糧生産を担う第一次産業の農業も同じです。就農以来、46年。常に語られてきたコメ作りの担い手問題。 現実は、産業政策は表向き、地域政策優先の農政。戦後の米作農政は、兼業稲作農業を中心に展開してきました。 それがいま、音を立てて崩壊してきました。兼業稲作農業の担い手が高齢化し、続々とリタイヤ。私の村には、600ヘクタールを超す田んぼがあります。いま、田んぼに立つ20代から30代の若者が僅か数名。  新しいコメ作りが求められます。 せめてこの若者達が、村の田んぼを守り国民の食糧安保を担う誇り高き農業経営者に育つ農業にするのがこれからの役目。 65歳になりました。年金が話題になる歳になりましたが、まだまだこれから勝負の時。    先ずは、将来に備え思い切った投資を決断。   しばらくは、休む暇はありません。    今年も 宜しくお願いします。 平成三十一年 元旦