にしおさか君 おばんです。
お見舞いありがとう。
今朝は、久しぶりにゆっくり起きました。
午前中は、新聞そして週刊誌を眺めてお昼。
我が家で唯一 定期購読している週刊誌「アエラ」。創刊当時から眺めています。 何のことはない、創刊当時の編集長と知り合いになったご縁で今日まで購読しているだけです。
元編集長様は、現在 我が家のお米のファンになってもらってます。毎月お米と共に田んぼ通信も届けてます。何しろ日本を代表するコラムも担当していた方。 毎月冷や汗をかきながら 届けています。 今は退職なされ 全ての公職から離れ 一市民として悠々自適の生活を楽しんでいる様子。
今週号アエラを眺めていたら 気になる記事が。
豪雨の田んぼでなぜ、死んだ。 ~11人の「水死」が示す日本の深層~ ライターは、長谷川 煕さん。長谷川さんの記事は、いつも楽しみにしています。
今年は 相次ぐ大型台風の上陸。 その度に報道された高齢者の水死。 私も、日本の米づくりの現状を象徴しているものだと 気になっていました。
反、畝単位の狭小の田を「一所懸命」で守る習わし。
「田んぼは減らせない」。「行くなと言っても・・・」
こんな見出しについ考えさせられます。
長谷川さんによれば、今回なくなった人に共通する点が2つほどあるという。
「田んぼの様子を見て来る」こういって出かけ犠牲になった。しかも、耕作面積が8反とか3反の小規模稲作農家だった。
二つ目は、犠牲になった人たちは みんな几帳面な人たちだった。「一所懸命」にも磨きがかかっていた。
文中の最後をこう締めくくっています。
確かに、反、畝単位の面積も守ろうとする少なからざる農業者の「一所懸命」は、専業者への水田の集中、規模拡大を阻んではいる。稲作、農業の大規模化が日本のめざす方向としても、零細規模であろうと「一所懸命」に取り組んだ、日本の農業史、いや日本史を彩る心根そのものまでを失っては、大規模化も空洞化する。 そして、妻たちが証言する几帳面さは、日本人の真面目ではなかったのか。
私も、この記事を読むまでもなく、これまでの日本の稲作を支えてきたのは、昭和ひとケタの愚直なまでに田んぼに通い続けてきた親父さんたちの存在だったと思います。
また、ここ数十年の高度経済成長以来の総兼業体制下での日本の稲作生産を可能にしたのも、昭和ひとケタの親父さんたちの存在でした。
問題なのは、その人たちが年おうごとに 農業の現場からリタイアしてきているという現実の中で、これから米づくりが続けられようとしていることです。
「一所懸命」「几帳面」この二つの言葉は、長谷川さんの言う日本人の真面目であり、これからの農業者の持つべき大切な指針なのだとあらためて感じます。
日本の食糧・農業は、今回の長谷川さんの記事にあった様な愚直なまでに田んぼを愛した、全国各地の多くの農民の存在によって支えられてきたと言えます。しかし、時代と共に日本人の意識構造も大きく変化しています。
農の現場も大きく変わってきました。
「これまで日本の米づくりは、農業者自身の農外収入を米づくりに投入して維持してきたが、これからは、納税者の一層の理解がなくては、維持していけないかもしれない・・・・。」と言った昨年会議で同席した 現在内閣府で働いている中堅農水官僚の言葉を あらためて思い出されたひと時でした。
そのためには、これからどの様な行動にでるか。それが、問題だ!!